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魚は朝食べるのが一番うまい。


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『大漁』

朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何萬の
鰮のとむらい
するだろう。

(「金子みすゞ童謡全集」より)

 

 

味音痴の確信

 

氷見で確信したことがある。魚は朝食べるのが一番うまい。近年は熟成した魚がブームだ。確か大学ではこんな風に教わった。
「魚の旨味はイノシン酸。死んだ直後の魚にはイノシン酸は含まないので食べても旨味は感じない。死後、筋肉のATP(アデノシン三リン酸)がADP(アデノシン二リン酸)に分解され、さらにAMP(アデノシン一リン酸)、IMP(イノシン酸)と分解されて旨味が増えていく。ここまでの過程を熟成と呼び、そこから$%%&$#$%%&#”#」

 

科学が出した答えである。僕は味音痴なのかもしれない。

 

命を食べる

 

冒頭に引用したのは金子みすゞの詩である。イワシの大漁に活気づく浜と、見えない海の中でのイワシたちの葬式。ちょうど氷見でもイワシが豊漁だ。情景が絵のように浮かぶ。さて金子みすゞは魚を獲る人間を非難しているのだろうか?それとも魚という弱者にもっと寄り添えと言っているのだろうか?もう一つ詩を紹介したい。

 

『お魚』

海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩を貰う。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

(「金子みすゞ童謡全集」より)

 

 

海の魚は「私に」食べられるのだ。

当たり前の話だが、僕たちは自分たちが生きていくために他の動物の命を奪っている。良いとか悪いとかじゃなくてそれが事実だ。金子みすゞの詩は外側から人間の営みを批判しているわけでもなく、魚という弱者に寄り添っているわけでもなく、あくまで当事者としてその事実と向き合っているだけなのではないだろうか。

都市的なライフスタイルの中ではその当たり前の事実が見えにくくなっている。牛も豚も鳥も魚も切り身になってパックに入ればただのモノだ。それを調理や科学でもっと楽しもうとする人間の努力は批判されるものではない。

でも「命を食べている」という事実をしっかりと見つめるならもう一つの楽しみ方が見えてくる。それは魚の命の主張を受け止めることだ。

筋肉の跳ね返してくるような食感も、漂ってくる磯の香りも、肝の濃厚さも全てが魚の生きていた証である。それがときに攻撃的に、ときに包みこむように主張してくるのが水揚げ直後の朝なのだ。これを全身で受け止めることほどの贅沢はない。どんな一流の料理人でもどんな高級店でも再現することはできないだろう。

魚の旨味はイノシン酸だそうだ。それは事実であり魚を熟成させることも楽しみ方の一つとして面白いと思う。ただそれを知識だけでやっている人がいるなら言いたいのだ。

「一度獲れたての魚を食べて見られ。」

魚の旨味がイノシン酸なら、魚のうまさは命の主張だ。

もう一度書こう。

 

魚は朝食べるのが一番うまい。

 

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魚を食べたければ氷見に来い

 

ここまでは無責任なことを書いた。というのも本当に獲れた直後の魚を食べるというのは釣り人と漁業関係者の特権であり氷見でもそれは変わらない。ふらっと氷見に遊びにきて朝に獲れたての魚にアクセスするのは難しい。

本当は言いたいのだ。

「朝獲れたての魚を食べたければ氷見に来い」と。

僕は氷見市から「地域おこし協力隊」を委嘱されている。やるべきことは氷見を評価することでも現状を嘆くことでもない。

カブスの記事も4回目になる。

  • 特定の魚ばかりでなくもっといろんな魚を楽しむ
  • みんながもっとマルの魚を自宅で調理する
  • 朝獲れたての魚を食べる
  • 魚好きの居場所がもっとあっていい
  • 都市と漁村の距離をもっと近く
  • 漁業と市民の距離をもっと近く

振り返れば偉そうに「べき論」ばかり書いている。

「自分でやれよ」

もう一人の自分が何か言ってきたので一つの決断をした。

そろそろ1年間の評論家気取りを卒業して実践者気取りになろうと思う。まず朝獲れたての魚が食べられる場所を氷見で作ることにした。

僕はイノシン酸のことはよく分からないけど、魚の命の主張とは向き合ってきた。だから魚の通訳としてそれができると思っている。数ヶ月後に自信を持ってこの言葉を全国に発信しよう。

 

「朝獲れたての魚を食べたければ氷見に来い」

 

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