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職人が人々の生活と地域の営みを支えた時代から、大量生産・消費時代を歩んだ 漁師町氷見の船大工・番匠光昭さんの人生と未来に残したい知恵


こちらの記事は、2016年3月19日(土)~22日(火)に、魚々座を中心とした街の中で行いました「氷見ローカルライト~氷見の物語を編む4日間~」で参加者によって書かれたコラム記事です。
※ライター紹介は記事最後にあります。

かつて、私たちが手にする日用品の多くは、その地域の生活に沿った使い勝手と、素材の特性を熟知した職人の手によって造られていました。
富山湾に面する氷見市は、北陸地区有数の漁師町です。そして、今も昔も氷見の基幹産業である漁業に欠かせないものが、漁船です。船大工は山に入り、木材の選定を行い、海上での操業に最適な船型を造り出す職人として、氷見の漁業を支え続けてきました。
しかし、その漁船も、高度経済成長期に大手企業が製造するプラスチック製の大量生産のものへと代わります。
氷見で代々船大工を行う番匠(ばんしょう)光昭さん(70歳)は、現在、富山県でほぼ唯一、木造和船を造る船大工です。長年、船大工として氷見の漁業に関わり続け、当事者として業界の大きな転換期を経てきた番匠さんに、これまでのことと、これから伝えていきたいことについてお聴かせ頂きました。

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中学を出たら、船大工にしかなれなかった

番匠さんは、終戦の翌年に、栃木県の船大工の家に生まれ、3歳の頃に番匠家に養子に入りました。生まれた家も養子先の家も代々船大工の家系で、家業を継ぐことが当たり前とされていた時代に、跡取りがいなかった番匠家で家業を継ぐために養子に出されたのでした。
中学を卒業してすぐに父の元で船大工見習いとして働きだした番匠さん。それなりにやりたいこともあったそうですが、父に「職人に学問はいらん」と言われ、船大工以外の道を諦めざるを得ない形で、船大工としての道を歩みはじめたそうです。

番匠さんの祖父の代には、氷見には海用の船を造る造船所が5~6軒あり、造船所ごとに職人が3~4人ずつ、また更に、大きな船を造る際など人手が足りない時に能登半島から出稼ぎの職人が来ており、当時は船大工をはじめとした漁業関係の職人が集まる地域でした。
海で使用する船の他に、干潟で使う田船や、川で使う川船を専門に造る船大工もいるなど、船は生活必需品であると同時に、船大工は氷見になくてはならない存在でした。

「作業自体は難しいし、力も要るし、大変だけど、出来上がった時にみんなが喜ぶ顔を思い浮かべながら造っていました。大きい船を造る時なんかは完成まで6か月もかかるものだから、特にね。」
そのおかげで、いつも美味しいお酒を飲むことができていたそうです。

大切な家族のために、大切なものを見失う

番匠さんが7年間の修行を終えて、一人前の船大工として仕事をはじめて数年が経った頃、現在のほとんどの漁船に使用されているFRP(繊維強化プラスチック)製の船が登場します。当時は若かったこともあり、これからの生活のためには時代に合ったものを造っていかなければならないと思った番匠さんは、FRP製の船のことを学ぶために福井の造船所に働きに出ました。この間に結婚し、子供も生まれ、仕事に一層心血を注ぐようになっていきました。

それから約3年が過ぎ、職場がオイルショックの影響でぐらついたことなどもあり、番匠さんは家族を連れて氷見に戻って来ることになりました。3年振りに戻った氷見で感じた大きな変化は、木造船の注文はめっきり減っていたことだったと言います。
漁業の先進地域である氷見では、最新のものへの切り替わりもあっと言う間で、定置網用の大型の船においては、伊勢や九州など他所で造られたFRP製の船が徐々に使用されるようになっていました。
3人の子供を養ってくために、番匠さんは福井で身に着けた技術で、必至にFRP製の船を造りを続けました。しかし、たまに昔を思い出しては、「木造船のほうが職人らしくてよかったよな。」という思いに駆られていたと言います。

「自分らは戦後の貧しい中に育ったから、どんどんものがプラスチックに代わっていって、簡単に製造できて簡単に捨てられるものをみんなが使うようになっていく様を見ながら、もったいないなと思っていた。」
そう思いながらFRP製の船を造り続けていくうちに、FRP製の船が氷見の港中に行き渡り、今度は造船の注文がなくなっていきました。

 

“最先端の船”が、地場産業を蝕む

氷見中の木造船がFRP製の船に代替わりしたのは、たったの10年間の間に起った出来事だったといいます。
更に、この10年で、地元の小規模な造船所のみならず、他所の大手造船所が製造したFRP製の船が氷見に入って来るようになってきていました。

昔は氷見の漁業を支える重要な存在だった船大工ですが、大企業が量産型のFRP製の船を氷見で売るようになっては、地元の小さな造船所では太刀打ちできません。
また、業務の大規模化によって、どんどん大きな船が求められるようになると、地元の小さな造船場では対応できなくなってしまいました。

そうして、船が売れなくなったことで、船大工の仕事はFRP製の船の修繕がメインになっていきました。
FRP製の船の修繕は、樹脂のにおいがきつく、更に、機械でケレンをする(船体を塗装する前に錆や汚れを落とす作業)際の粉塵もひどく、人体にも良くないものだそうです。それでも、「家族を養っていくためには、やっていかないといけなかった。だから、楽しくてやっているわけではなかった。」と、番匠さんは言います。

「船を造る作業はきつくても、喜んでもらえて、やりがいがあった。でも、FRP製の修理がメインの業務となってしまっては、何のための造船所で、何のための船大工なのか。」と、職人としての存在意義を失う気持ちになったそうです。
仕事が修繕のみになると、それまでの造船と比べて仕事量が少なく、単価を安くせざるを得ないため、仕事の取り合いになってしまいます。「仕事の奪い合いなんかしたくなかった。船大工として、自分で木造船を造り上げることをやりたかった。」と番匠さんは言います。
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木造船を造りたい

木造船がどんどんなくなり、仕事も下火になっていく中で、ある日、番匠さんに転機が訪れます。
昭和57年に開館した氷見市立博物館から、展示用の木造船の制作の依頼がありました。依頼を受けて久々に木造船を制作した番匠さんは、職人としての手応えをしっかりと感じます。

「当時は30代後半で、FRPの船をじゃんじゃんつくっている時期でね。自分が弟子だった頃にたくさんあった木造船は、もう氷見になくなったのかな、と思うと、寂しくなってね。」
いつか暇になったら、木造船を残していきたいと考えるようになったそうです。

そして、次第にFRP製の船の製造も受注が減り、50代後半になった番匠さんは、昔の船大工が元気だった頃のことを残すべく、市内に残る木造船を集めて修繕を行う活動をはじめました。
集めた古い木造船の中には、昭和10年に番匠さんのお祖父様が造った木造船もあったりと、木造船の修繕を通して昔の船大工の仕事に触れることに、喜びを感じることが多々ありました。

木造船が生み出す、新たなコミュニケーション

「職人の仕事は体で覚えるものだから、テキストはない。自分で文章に起こすことは得意ではないし、疲れるし、そんなことよりも仕事が気になってしまう。」という、根っからの職人気質の番匠さん。
木造船の記録を残していきたい気持ちがあり、取材を受ける機会も出てきましたが、はじめのうちは船大工の仕事をうまく話すことができなかったそうです。

そんな中、頼りになったのが、博物館の学芸員さんでした。「仕事のことは徐々にいろんな場面で口から出てくるもので、それが学芸員の手で冊子にまとめられて、その冊子を読んでいくうちに、自分でも木造船づくりへの理解が深まって、あれもこれも、と説明できるようになった。」と言います。学芸員さんは頼もしい仲間だ、とご紹介して下さいました。

また、学芸員以外にも、木造船を通して様々な出会いがあることも、最近の楽しみであり、喜びであると語って下さいました。
アート系NPO法人・ヒミングから、アートイベントとして「ミニチュア版の木造船を造って、ダックレースをしたい。」という提案があった際には、「これからは記録として残していくしかないものだと思っていた木造船に、新たな活路を見出した。」と言います。ヒミングと共同でのアートイベントは、現在までに度々行っていらっしゃいます。
また、伝統泳法を行う学校の水泳部や、廃船を描き続ける画家など、木造船に興味を持つ様々な人たちが、番匠さんに連絡をとってくるようになりました。

昔は船を通して仕事があり、生活があり、人との繋がりがあり、それが番匠さんの喜びになっていましたが、今は船を通して様々な地域の、様々なジャンルの人との交流が広がっていくことが、番匠さんの新たな喜びになっています。

職人がつくる、循環する地域のあり方

番匠さんははじめ、職人の道を歩まざるを得ない境遇に反発心を抱いていたこともありました。そのため、31歳の時にお父様が亡くなられてからは、ついついお父様の悪口を言うようになってしまっていたそうです。自分を船大工にしたお父様を、長年憎んでいました。
ですが、今では職人だから体験できる喜びや、楽しい出来事にわくわくすることも多く、番匠さんを船大工の道に引き込み、一人前の職人に育て上げたお父様には「今では足を向けて寝られない。」と言います。

番匠さんは、『地場産業が成り立たない』『シャッター街が増えている』といった多くの地域が抱える問題に対して、「地域のいろんな職人が元気になることで、地域が元気になるはずだ。」と言います。
業界の最先端がFRP製の船になったといっても、それでみんなが豊かになったかというと、そうではありませんでした。小さな商売をしている人の商売が成り立たなくなっていく様子を同じ目線で見つめながら、番匠さんは「時代は本当に進歩したのか?」と疑問を抱いたのだそうです。

氷見は海だけではなく、里山にも囲まれています。かつては山の人が山を守り、山の木々を管理しながら海の船大工に木を提供し、山の木からできた船で、海の人は海を守るという、山の人と海の人が地域ぐるみで互いを補完し合う関係が保たれていました。
木造船が造られなくなることで、山の木材は不要になり、木々が管理されなくなったことで、それを餌とする動物に異変が起こります。山ではそれまでに見られなかった熊が出没するようになり、猪が異常に繁殖して田畑を荒らすようになるなど、獣害に悩まされるようになったそうです。

「その土地にあるものを使い、その土地の生活を支える道具を造る職人たちが元気になることで、地方から日本が元気になるはず。」と番匠さんは言います。

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未来に残したい、知恵と思い

今からの時代の生活に、木造船が必要なのかはわかりません。ですが、いつかどこかで、船大工が持つ技術や役割が役に立つことがあるかも知れないという思いから、番匠さんは最後の船大工として、自らの職人技を残していく活動を行っています。そして、今や氷見の木造船は国登録の文化財にもなりました。
近年は、より多くの人に興味を抱いてもらえるよう、アートや地域のお祭りなどの場で、多くの人が実際に木造船に触れることができる機会を増やすことに努めています。
「今更なかなか昔に戻れるものではないけど、昔の記録を残していくことで、昔はどうしていたから、じゃあ今からどうしていくか?という疑問を投げかけていくきっかけになればいいと思っている。」と番匠さんは言います。

日本を豊かにするために汗を流し続けてきた先人たちの恩恵を受けて、私たちは豊かで便利な生活を送っています。それは、手を伸ばすだけで手に入れられるモノが飛躍的に増えた、と表現できるのではないかと思います。
一方で、昔は手を伸ばしたところで手に入るものが限られていたのか、というと、少し違うと思います。手の内を知り尽くした地域の職人たちが、その地域の生活に適した持続可能なスキームをもたらしてくれていたのではないか、と思います。
これまでに一体、どれほどの職人の技や姿が消えていったことでしょうか。そして、今残る職人の技や姿がいかに尊い存在なのかを考えさせられます。

ライター紹介

mt森多恵子 さん
福岡市在住。以前は雑誌の編集をしており、流れに流されてライター業務も行うようになりました。生まれも育ちも、ご先祖様も代々福岡の内陸の平野部で育ったので、国内外問わずあちこちに行っては知らない風土や人に触れることが大好きで、今回ははじめての土地でいろいろなお話を聞けて楽しかったです。http://mory.info