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魚々座はなぜ「黒い」のか?


魚々座の外観は真っ黒です。

外部から見ると非常に目立つこの外観、なぜここまで黒くする必要があったのでしょうか?そこには北陸の風土とこれからの氷見のまちの景観を考えるためのヒントがありました。

 

魚々座の「黒」は、屋根の黒瓦と調和する

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氷見漁港から歩いても約15分ほど、海岸線からとても近い位置に氷見の町中を見下ろすことが出来る朝日山公園があります。その展望台からは、通り沿いに並ぶ町家の屋根に黒瓦が続く様子がよく分かります。特に晴れた日には瓦がキラキラと輝いてとても鮮烈な光景を見せてくれます。

魚々座は改装される際に、この黒瓦の並ぶ景観を守っていく意識を高めるために黒く塗りなおされることになりました。

 

氷見の風土に合わせて作られた黒瓦

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瓦は日本の民家の屋根を守り、そして美しく飾るものとして親しまれていますが、その瓦の色や形は地域性を色濃く表します。三河の三州瓦や淡路島の淡路瓦など、地域でとれる土を活かした有名な瓦がありますが、氷見の黒瓦は一般的には「能登瓦」と呼ばれるもので、江戸時代末期から寺社や役場、また豪農・網元など裕福な家庭の民家などで使われるようになり、能登地方から富山県全域にかけて広まっていったと言われています。

 

黒瓦の外観的な特色としては、他の地域の瓦に比べて日に当たった時の輝きが強いことがあります。これはなぜかと言うと、粘土を固めた瓦に釉薬をかけ、窯で焼き上げた「釉薬瓦」と呼ばれる瓦だからです。茶碗や花瓶などの焼き物でも、釉薬をかけて焼き上げた陶器のツヤはとても瑞々しく感じますが、それと同じ方法でつくられているわけです。

 

瓦が釉薬でコーティングされることによって水分を弾くため、釉薬瓦は雪や雨に強いと言われていますが、その中でも、能登瓦は寒さによる凍害や海が近いことによる塩害によって瓦が破損する事のないように両面に釉薬をかけ、高温で焼きあげることによって、長い年月を経ても色褪せることのない輝きを持つことができるようになっています。地域の気象条件を逆に特徴として活かしているわけですね。

 

この釉薬瓦ですが、江戸時代までは加賀地方を中心に取れる赤い釉薬を用いた赤瓦が中心だったそうです。しかし、能登から越中で取れる粘土は黒瓦に適したものだということから、黒い釉薬が開発されるようになり、地域で作られた黒瓦が広まってくることになりました。雪の白さや空の青さにマッチし、氷見ならではの広い民家でも見栄えよく引き締めてくれる黒瓦は、地域ならではの素材で作られているからこそしっくりくるんですね。

 

氷見の町中に黒瓦が並ぶようになったキッカケとは

しかし、氷見の町中にある漁師や商人たちの町家に黒瓦がすぐ広まったというわけではありません。庶民にとっては家の屋根に瓦を葺くという事は敷居が高く、昭和に入る頃までは置き石屋根と呼ばれる、板葺きの屋根が風で飛ばされないように石で押さえる屋根が一般的だったそうです。

 

この景観が一変するのが、昭和13年(1938年)9月に発生した氷見大火です。氷見の町中で約1600軒の民家や寺社を焼きつくした大火事の後、氷見の町では本格的に防災計画が立てられることになります。延焼を防ぐために道幅を広げ、直線的な通りをつくる都市計画が実行されます。そしてその町並みに並ぶ民家には、屋根からの延焼を防ぐ意味でも黒瓦が並ぶようになったと見られています。

 

氷見の黒瓦の町並みは、約80年ほど前に生まれたと言ってよいでしょう。古そうに見えて案外新しいもの、とも言えるかもしれません。それでも地域の特性を活かした材料から作られ、地域の風土を考えることによって生まれた黒瓦だからこそ、この町の景観を何よりも鮮やかに彩るものとして馴染んできたのだと感じます。

 

これからの氷見の景観を引き継ぐためのポイントとして

公共の場所でもこの黒瓦を活かした景観を作っていく動きが進んでいます。今年の春に改修されたJR氷見駅前のロータリーには、女良漁港の漁師小屋を飾っていた鰤の形の雪割瓦を復元した瓦屋根のデザインが施されています。
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これからも、氷見の風土に見合った景観を引き継いでいくためのポイントとして、不思議な黒い建物である魚々座が与えるインパクトは大きいでしょう。

 

(参考文献)  「北陸の瓦の歩み」(日本セラミック協会北陸支部編・能登出版・2001)