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企画展「タコカプセルー時と海と、おらっちゃを繋ぐ」という旅


僕がこの夏、担当した企画展「タコカプセルー時を海と、おらっちゃを繋ぐ」は様々な人が時間や海に向き合うことを念頭に、タコ壷漁の活動を記録し日々展示に反映し、会期が始まってからも更新される動き続ける展示でした。会場の、ひみ漁業交流館魚々座は展示物である網やタモや籠などの漁具に触ることができ、身近に感じれるという特徴がありますが、さらに進んで「実際に使う」というところにまで発展しようという目論見も、この企画にはありました。この文章のタイトルを「旅」としたのは氷見にもタコ壷漁にもほとんど素人だった僕にとって、企画を進めて行く中で出会う人や出来事は、振り返ると地域や時間を旅するような感覚があったからです。

企画展を実行するにあたり、タコのことをはじめ何もわかっていなかった僕は、タコ壷漁の経験者の話を聞いて回る中で敬愛すべき三人の人物に出会いました。

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最初にお世話になったのは氷見市小杉に住む漁師浜野功さんです。功さんは70歳をわずかに越された現役の漁師さんです。自分のことを「高齢者」と呼んでおられましたが、普段からカクシャクとしており、老いた感じのしない方です。一度、功さんの普段の仕事である定置網漁に同船させてもらったことがあります。1メートルはゆうに越すシイラを鍵棒で引っ掛ける様などはとても70代には見えませんでした。その功さんから60年前の功少年が近所の白石先輩とタコ壷漁に出る話は、まるで海洋冒険譚のようでした。

それは戦争が終わってまだ10年くらいのこと。お小遣いを欲しくても親も周りの大人もお金などは持っておらず、近所の白石先輩と功少年は、タコを採って市場でお金に変えるということを考えます。白石先輩と功少年には一銭もお金がありません。陶器のタコ壷も縄も買えません。無いならどうするか?二人は、小杉の港で拾ってきたり貰ったりしたもので必要な道具を作るという行動に出ます。定置網の浮子に使っていた孟宗竹の太いのをたくさん貰い、そこに拾った石をこれまた貰った縄でくくりつけ、竹で自作した筏で海に出て毎朝タコを採りました。そのタコを持って市場に行ってお金に変え、それから学校に行く。そのような、一銭も使わずにお金を産むという生活をしばらく続けます。その結果、自分の稼いだお金で映画を鑑賞し、エナメルの長靴を所有するなど、大人顔負けのお金を得たそうです。この話は70を過ぎた功さんにとっては美しい少年期の思い出話で、功さんと長く付き合ってきた方にとっては何度も聞いたことのある話だそうです。功さんの語り口は説明より実行。手を動かし、体を動かし、口から出る言葉の多くは罵声という、生粋の漁師のそれでした。

さて、この企画展は実際にやってみるということを重視した展示です。しかし、タコ壷漁というのは漁業権を持っていないとできません。僕はもちろん漁業権を持っていませんし、船舶免許も持っていませんし、タコ壷漁もしたことはありません。功さんにタコ壺漁をしてもらい、そこに同行取材させてもらい、それを展示物に反映することで、展覧会を構成しようと考えました。そこで、功さんに弟子入りしたつもりで、まさに日参して壺と縄のくくり方から、ロープのさばき方から何から何まで教えてもらいました。最初は10分おきに怒鳴られていましたが、怒鳴っても僕がオロオロするだけで何も仕事が進まないことに功さんが気づいたのと、僕がだんだん仕事ができるようになったこともあり、最後の方は本当に師匠と弟子みたいな感覚でタコ壷漁をしていました。

 


 

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功さんをはじめ周辺の漁業関係者に、現在もタコ壷漁をしている人はいないか聞いてまわる中で二人目に出会ったのが石川県七尾市大泊の伊豆哲夫さん(写真右)でした。既に80歳を過ぎていましたが、今も毎日元気にタコ壺漁をされており、既に寒くなり始めたこの時期はきっと、ミズダコという大きいタコを採る準備をされているはずです。東京水産大学(今の東京海洋大学)の技官を定年までお勤めになり退官、故郷の七尾に帰ってきて初めてタコ壺を使った漁を始め、既に20余年の歳月を経ています。タコ壺漁を始めたきっかけを聞くと、漁師さんの既得権益を邪魔しないということ、初期費用も他の漁法に比べるとかからないということもあったようですが、もう一つの理由として、子どもの頃-それは戦中・戦前ということになりますが-タコ採りをして遊んでいたということもあったようです。幼少期、伊豆さんは棒の先に赤い布キレを付けたものを海辺の岩と岩の間にゆらゆらと揺らしながら入れ、赤い布キレに惹かれてやってきたマダコを引っ掛け針で採って家に持ち帰り、お母さんに調理してもらって食べていたそうです。そういったタコに関する記憶が、退官後のタコ漁に繋がったのかもしれません。伊豆さんは大学で勤めていたという経歴もあり、素人の僕にも分りやすい語り口で、タコの種類別による特徴を教えてくれました。麦の収穫期の6月になると採れ始めるマダコを麦ダコと呼んだり、寒い所を好むミズダコは冬になると海面の温度が冷えるのでテトラポットの近くまでやって来ることなど、土地に根付きながらずっとタコを採り続けている伊豆さんならではの情報をたくさんいただきました。


 

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浜野功さん、伊豆哲夫さんの他にもう一人タコ壷のことでインタビューした方がいます。氷見・島尾に住む中田春夫さん(写真左)です。春夫さんはタコ壷以外にも氷見で行われる木造和船の櫓こぎのイベント網を編むアート作品などの先生役をされており、様々な形で氷見の漁労文化の伝承に一役も二役も活躍されている、やはり70歳を少し越された元気な方で、タコ壷の企画を始める前からお世話になっていた方です。春夫さんのお父さんは漁師さんでタコ壷漁もしており、若かった頃の春夫さんはこれを手伝っていたそうです。今回の企画展で使っているタコ壷のほとんどは春夫さんの所持品です。春夫さんが住む島尾は目の前に海水浴場が広がり美しい砂浜が広がるところです。昔はこの辺りにもイイダコというマダコより一回り小さいタコがたくさん採れたそうです。このイイダコを、ハマグリやアワビの貝殻をタコ壷代わりにして作ったものを海中に仕掛けていたそうです。近年、島尾ではイイダコがあまり採れなくなってきました、それは春夫さんいわく、卵を産み付ける場所でもあったハマグリやアワビのタコ壷を使う人がいなくなったからだと言います。氷見市女良にある文化財センターには、イイダコ漁用のハマグリを使ったタコ壷がたくさん展示してあります、半世紀前ぐらいはタコを採ることが当たり前だったのでしょう。実はこのタコ壷をメインにした企画展は、春夫さんの「タコぐらい自分で採らんまいけ」の一言から出発したのです。

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タコ壷漁の経験者などに、実際の話をインタビュウーしていくのと同時にインターネット・水産関連の書物でタコの情報を集めました。そういった中でもおびただしい数の面白い情報に出会いました。北陸地方の1地域、福井県の平。ここは焼き物が盛んな地域で、ここで作られるタコ壷は黒褐色のものが多く、氷見周辺でも同じような黒褐色のタコ壷が多く見られること。1970年代に入ったあたりから氷見の漁船は木造船からFRP造船に変化していきましたが、それと期を同じくして焼き物から樹脂製にタコ壷の素材が変化し始めたこと。九州西部では近年、「捨て壺」といって、タコ増殖のために住処としてタコ壷を海中に投げ捨てており、このため海洋汚染につながらないよう樹脂製ではなく、わざわざ陶磁器製のタコ壷を熊本県天草の窯業会社に発注していること、などなど…。タコ壷に関するリサーチを通して、時代や地域性が透けて見えるような感覚がありました。

 

このように、タコ壷漁に関してリサーチを重ね、自分なりにどう展示していこうかと、様々な人からご意見をいただきながら調整していきました。展覧会のタイトルも、どこに何を置くかの展示構成も様々な意見を調整し自分なりにまとめていきました。

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6月30日から始まった展覧会は、展覧会のコンセプトを大きく刷り出した看板から始まります。続いて素焼き・セメント製・樹脂製など、さまざまなタコ壺を並べて展示。氷見でよく見られる三種のタコ、イイダコ・マダコ・ミズダコの解説パネル。実際にタコ壺が海中で仕掛けられている様子を会場でコンパクトに展示。そして、浜野功さんや伊豆哲夫さん、中田春夫さんのタコ壷漁に関するインタビューを収めた映像など、よりリアルににわかりやすく展示しました。そして展示の最後に来館者のリアクションを反映すべく、直径180センチの丸パネルを立て、そこにコメントを書き込めるようにしました。これが展覧会初日の姿です。

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初日を迎えた後もこの展覧会は、様々な企画がありました。7月4日はアーティスト日比野克彦さんを招き、伊豆さんのタコ壺漁に同行してもらいました。実際のタコ壷漁を体験してもらい魚々座に移動し、茹でタコを作りました。そのあと、伊豆さん・功さん・春夫さん3人のタコ採り名人と日比野さんのタコ会議を開催。タコに関する情報や感動を、来館者の前で語ってもらいました。その後、日比野さんによる、竹筒とセメントと小石を使ったオリジナルタコ壷作りのワークショップを開催。アートという特別な視点も取り入れ展覧会を進めました。


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八月に入ってから二回、「子供タコ体験」と題した親子向けのオリジナルタコ壷作りと功さんのタコ壷漁に同行したイベントを実施しました。これには氷見市はもとより東京都、石川県の親子連れなどたくさんの方が参加してくださいました。参加者に作ってもらったタコ壷をその日のうちに功さんと僕とで海中に仕掛け翌日、功さんの船に乗り参加者と海中より引き揚げました。すぐそこにある自然にすらなかなか触れることのが出来ない現代の子供はもとより、その親御さんたちにも感動といったら大げさかもしれませんが、そういうものを与えていたかもしれません。

 

この「子供タコ体験」と並行して、三日に一度の頻度で活動する、社会人向けの「タコ部」という活動もありました。タコ壷は、常に清潔にしていなければキレイ好きなタコは壺には入りません。放っておいて海底で砂が溜まって汚くなってしまったタコ壷には、タコは入らないのです。この掃除が主な理由ではありませんが、週末と週半ばのだいたい週二回、タコ部に所属する大人が功さんの船に同行し、タコ壷漁を体験するという企画もありました。

 

さらに八月の毎週月曜日、僕が先生役になり、魚々座内でオリジナルタコ壷作りワークショップを開催していました。これには展示担当者による解説という側面もありました。近所の小学生などが夏休みの課題のために参加し、タコ壷と縄のくくり方にも地域ごとに違うことや、時代ごとに材質が変化していく事などを知ってもらいました。なんとなくは知っていたタコ壷の奥深さに小学生はもちろん、その親御さんも感嘆の声をあげていました。このように直に来館者のリアクションを受けながら一緒にワークショップをすることができ僕としては非常に良かったです。

この企画はお年を召した方、親子、社会人、など本当に様々な世代にアプローチしていきました。その中でも、最後の方になってしまってのですが、氷見高校海洋科学科の生徒さんたちとの活動は重要なものでした。学校の授業の一環として、高校生4人と先生2人が浜野功さんのタコ壷漁に同行。あいにくの雨の中、海中でのタコ壷の撮影と船に揚げる作業をしました。近い将来、水産関係の仕事に就く彼ら4人にとっては、目の前にいた浜野功さんという、漁師一筋半世紀の元気で真摯な現役漁師との交流は、いつの日か重要な事を決める時に役に立つと信じています。

魚々座のタコ壷展の一角では、こうした出来事を日付ごとに写真とコメントを付け、いつ何が起こってどんな反応があったか分かるようにして展示したコーナーも設けていました。

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また、6月30日の初日には何も書き込まれていなかった直径180センチの丸パネルは9月25日の最終日には、タコでエナメルの長靴を買った功さんに感心するものや、「たこやきうまーい」とだけ書いてあるもの、タコのイラスト、様々な反応で埋め尽くされました。

海に出て、タコを採り食べる—ただそれだけのことをしたわけですが、それだけするのにワザと大きく遠回りし、たくさんの人や出来事を巻き込みました。

冒頭、この展覧会を進めて行くことがまるで地域や時間を旅するようだと記しました。僕にとって氷見市は知らない土地であり初めて見る風景ばかりだったということも、もちろんあります。それに加えて功さん、伊豆さん、春夫さんたちに伝えたい経験や思いがあるんだということも大きな発見であり出会いでした。それらをふくめて長い旅をした感が僕の中に残っています。

この企画が、参加してくれた人たちに、どのような影響を与えたかは、すぐにはわかりません。でもタコの事を聞くとハツラツとして50年前の白石先輩との思い出を語る功さんのように、「タコカプセルー時と海と、おらっちゃを繋ぐ」は何か大事な経験であり、誰かの原動力になるかもしれないと思います。

タコカプセルー時と海と、おらっちゃを繋ぐという楽しい旅を終えて。  吉本伊織