平成27年8月9日、テントの進水式。約40年ぶりにテントが海に浮かんだ。

氷見のテント船 ―あるいは和船について思うこと―


去る10月30日、氷見漁港で開催された「テント遊覧」に行ってきた。普段は魚々座に展示されている木造船テント。乗せてもらうのは昨年8月の進水式以来だ。

3丁の櫓(ろ)と2枚の櫂(かい)で操船される全長9mのテントは、スピードは上々、安定感も抜群。よく「板子一枚下は地獄」といわれるが、漁港内にいる限りはそんな不安も感じない。

私がいる間も次々にお客さんが訪れ、テント遊覧を楽しんでいた。もっと多くの人がこのテントに乗り、テントのこと、和船のこと、そして船大工さんのことを知ってもらいたいというのが今の想いである。

 


平成28年10月30日、テント遊覧にて。
平成28年10月30日、テント遊覧にて。

ということでテントである。このテントについてはいろいろと説明が必要だろうと思う。

まず「テント」というのは船の種類に付けられた名称、船種名である。けっしてキャンプのときに張るアレではない。氷見では単に「テント」、あるいは「船」を付けて「テントセン」と呼ぶ。いわゆる和船の船種名として、江戸時代には全国的に見られた名称で、「テントウ」と呼ぶ地域もある。ただし、地域によってその「テント」「テントウ」がさす船の形はさまざまである。

氷見ではテントのほかにもドブネやカンコ、テンマ、サンパなどの船種名があるが、それぞれ船形や構造、大きさが異なる。テントは7mから15mほど、氷見で漁撈(ぎょろう:魚貝や海藻などの水産物をとること)に用いられた船としては大型の部類に入る。

昭和30年代までは無動力のテントが定置網漁の網取り作業や手繰網漁などに用いられ、昭和40年代にはディーゼルエンジンを載せたテント型動力船が定置網漁の主力となった。だが、昭和40年代末にはFRP(繊維強化プラスチック)製の漁船が導入され、木造船のテントは次々に姿を消していった。現在も漁港に係留されたテント型の漁船を目にすることができるが、あれはFRP製の船だ。

ともあれ、昭和40年代から50年代にかけての木造船終焉期、氷見の漁業を担ったのがテント型動力船であり、その母体となったテントなのである。木造船の時代は遠い昔となった現代の氷見において、すでに現存していなかった木造のテント。それを復元しようというアートNPOヒミングの発注を受け、その建造を手掛けたのが船大工の番匠光昭さんである。番匠さんは、全国でも少なくなった現役の船大工の一人。木造船が廃れてからすでに40年、今でも木造の和船を建造することができる船大工さんというのは本当に少ないのだ。テントの建造には番匠さんの手元としてアーティストの小川智彦さんが加わり、2名体制によるテントの建造は、平成26年秋頃から翌27年春にかけて行われた。そうしておおよそ40年ぶりに復活したテントは、氷見で受け継がれてきた造船技術の結晶ともいえる存在である。

 

一般的に、海で使われたテントないしテントウは、二枚棚構造という底板の左右に棚板(舷側板)が左右各2枚接合された構造で、三枚底のいわゆる和船らしい船形が特徴だ。もともとは瀬戸内海方面で発達した造船技法によるもので、江戸時代の弁才船(北前船、千石船として想像できるあの船だ)が各地を往来したことでその造船技術が全国に広まった。このテント型の船が富山湾で漁船として使用された確実な証拠となるのが、魚津浦の漁業を描いた絵図、天明5年(1784)『越中魚津猟業図絵』(石川県立図書館)である。おそらく18世紀の中頃には漁船として一般的な存在になっていたのではなかろうか。

 

氷見で使われたテントという船種名の文献上の初出は、明和7年(1770)。先に紹介した魚津の例の14年前のことだ。その史料、窪村の『引網旧記』での表記は「てんと」、イワシの入った大ザルを積んだ運搬船として登場する。もちろん名前が書かれているだけで船形までは明らかではないが、その名称からも後のテントと同様の構造を持つ船だったと推測してよかろう。

また、氷見町の町役人田中屋権右衛門が書いた『憲令要略』では、嘉永6年(1853)の記事中、定置網漁に従事した船種名として「どう舟」「通ヒかんこ舟」に並んで「てんとう」が出てくる。

これらの史料から、氷見では18世紀後半にはテントが運搬船として、19世紀中頃には定置網漁の補助船として用いられていたことがわかるが、ついでに江戸時代には「テント」「テントウ」ともに使われていた呼称だったこともわかる。

さて、博物館では、船の名前について、どのような漢字をあてるのかという質問をよく受ける。博物館としては、民俗学のルールにのっとって採集語彙はカタカナ表記にしているからなのだが、実際には江戸時代の文献からして平仮名や片仮名での表記が多い。その他の史料も見てみると、テントについては「天道」「天頭」「天当」「天登」といった漢字で書かれる例が多く、テント特有の天を向いて突き立つ船首の水押(ミヨシ)がその名の由来とされる。

一方、大坂の船大工、金澤兼光が明和3年(1766)に発表した船の百科事典『和漢船用集』では、「不通を渡して道を伝える」の意から「伝道」ないし「伝通」と書くのが正しいとされる。兼光によれば、最近皆が「天道」と呼ぶがそれはそのいわれを知らないからであって、音だけ聞いて間違っているのだ、とのことである。

どっちが正しいかはともかく、江戸時代の中頃にはすでにテントの漢字表記には諸説あって、その本来の由来すらわからなくなっていたということは間違いない。

ちなみに『和漢船用集』を著した金澤兼光、博覧強記ではあるがとにかく理屈っぽく、本書のあちこちで通説をひっくり返している。このテントについてもご多分に漏れず、である。ただしわからないことには素直にわからないと言える方のようで、例えばカンコについては「字未考」ということで無理やり漢字をあてるようなことはしていない。

 

魚々座内のテント。船種の部材が水押(ミヨシ)。 空に突き立つ水押の形がテント名の由来か。
魚々座内のテント。船種の部材が水押(ミヨシ)。
空に突き立つ水押の形がテント名の由来か。

 

全国各地のテントはそれぞれ特徴がある。例えば加賀テントと呼ばれる石川県の能登外浦から加賀地域のテントは、航行性能が高い細身の船体に、高く突き上がり先端が鋭く尖った水押が特徴だった。そうした違いはあれども、上棚、下棚、底板から構成される二枚棚構造の船という点はおおむね共通している。

ところが、氷見はじめ富山湾のテントには、それを逸脱する構造上の大きな特徴があった。底板の左右両側に、オモキと呼ばれる分厚い部材が取り付けられるのである。このオモキ、杉の丸太を半分に割り、斧で刳って造られる部材である。

元来、富山湾を含む日本海沿岸地域には、オモキ造り(『オモキ造りを記録する―造船技法の記録保存とその試み―』(富山県博物館協会))という造船技術が伝わる。これは、刳材(くりざい)オモキを基本に船体を構成するもので、いわゆる丸木舟から、板合わせで建造される構造船へと船が進化していく中間形態にあたるということから、準構造船と呼ばれたりもする。だが実際は、オモキ造りの船は木造船の終焉期である近現代まで活躍し、地域によっては今も現役で漁撈活動を担っている。氷見では、江戸時代を通して定置網漁の主力であり、昭和30年代にその座をテントに明け渡したドブネが、このオモキ造りの構造を持つ船である。

富山湾のテントは、板材を接ぎ合わせて建造される船であるにもかかわらず船底部には刳材オモキが組み込まれている。他地域では見られないこの構造は、オモキ造りが根付くこの地域に、江戸時代中頃に板合わせの造船技術が持ち込まれた際に両者の技術が混ざり合って生み出されたものと考えられる。

より厳密に言えば、全国でも能登内浦から能登灘浦、氷見から入善町にかけての富山湾一帯にのみこの構造が分布する。また、富山湾の中でも新湊のテントだけは、オモキがない通常の二枚棚構造で、富山湾東端の朝日町にもこの構造は見られない。そうした例外はありつつも、富山湾独自の船体構造といえるのがこのテントのオモキ造りである。

そもそもオモキ造りのドブネは、丸太を刳って造る丸木舟の直系に位置する船とされる。また、オモキ以外は分厚い角材を合わせたその船体は、イカダから発展したものとも言われる。日本の船の祖である丸木舟とイカダの流れを汲むドブネ。そしてそこに江戸時代に全国を席巻した弁才船(日本財団図書館)の板合わせの技術が融合した富山湾のテント。つまり富山湾のテントは、いわば日本の造船史のすべての流れを受け継ぐ存在なのである。

だが、日本の造船史上重要な船であるにもかかわらず、この構造を持つ船は県東部のものが数艘残るのみ、氷見のテントに到っては1艘も残っていなかった。そうした状況の中で番匠さんによって復元されたテントは、失われた造船技術を現代に蘇らせるものとなった。

平成27年8月9日、テントの進水式。約40年ぶりにテントが海に浮かんだ。
平成27年8月9日、テントの進水式。約40年ぶりにテントが海に浮かんだ。

 

テントを完成させた番匠さんは、「船を造って残せればそれでいい」とおっしゃる。

これまでは古い写真と、漁師さん、船大工さんの記憶の中にしかなかったテントが形を成して目の前にある。この船そのものと、船が持つ情報―それは例えば先に紹介した造船技術上の特徴だったり、造り手である船大工さんの知恵や、使い手である漁師さんの知恵だったり―を、より良い形で未来に伝えていくために今の我々にできることはなんだろう。

とりあえず機会があったら和船に乗ってみてほしい。そして、私が書いたようなメンドクサイことを考えずに波に揺られてみてほしい。それだけで和船の文化を今に伝えることになるのだから。