上庄川右岸、北ノ橋北詰の問屋に水揚げされたブリ。横付けされている船はドブネ。

氷見とブリとブリ漁と ~ブリ漁の歴史と氷見~


去る平成29年1月31日、氷見漁協は「ひみ寒ぶり」のシーズン終了を発表した。今季の累計本数は約2万7千本。平成23年度から始まった、寒ブリのシーズンを告げる「ひみ寒ぶり宣言」だが、記録的な不漁のため宣言が出せなかった昨年度に続き、宣言下での漁獲高は今季が最低となった。

 

江戸時代から近代の氷見のブリ漁

江戸時代から昭和30年代まで、冬場のブリ漁の主役だったのが大型の木造船ドブネである。最大で全長15m、丸太を刳り貫いた「オモキ」を船体に組み込んだドブネは、板合わせのテントなど他の漁船に比べて積載性に優れており、1艘でブリ1,200~1,300本を積むことができたという。そのため定置網によるブリ漁の操業には欠かせない存在だった。

昭和30年代頃の大敷網(大型定置網)では、網起こし用のドブネが6艘、予備船のドブネが2艘のほか、曳航用の動力船1艘、水揚げされた魚を市場へ運ぶ魚積み船のテント1艘の計10艘と小型船のテンマ2艘程度が用いられた。氷見では、これら1船団が各船にブリを満載にし、約10,000本の水揚げがあってはじめて大漁旗を掲げた。しかもほかの魚が大漁でもダメで、大漁旗を掲げるのはブリが大漁の時に限ってのことだったという。

それだけ氷見の漁師さんたちにとって、また氷見という土地にとって、ブリは特別な存在だ。

上庄川右岸、北ノ橋北詰の問屋に水揚げされたブリ。横付けされている船はドブネ。
上庄川右岸、北ノ橋北詰の問屋に水揚げされたブリ。横付けされている船はドブネ。

 

縄文時代の人もブリをとっていた?どうやって?

氷見とブリの関わりは縄文時代にさかのぼる。

縄文時代の上久津呂中屋遺跡(かみくづろなかやいせき:約6500年前)や大境エンニャマ下洞窟遺跡(おおざかいえんにゃましたどうくついせき:約2400年前)の発掘調査ではブリの骨が出土しており、縄文時代に氷見地域に住んだ人びとがブリを食べていたことは間違いない。とはいえ、出土したのは今の基準でいえば若魚であるフクラギ程度の大きさとのことなので、冬場の荒れた富山湾に回遊してくる大きなブリを獲る手段は、その当時まだ無かったのかもしれない。それでも縄文人たちは、湾内に回遊してくるフクラギは獲っていたわけで、それなりの漁撈(ぎょろう)が営まれていたということになる。では、どうやって縄文人たちが魚を獲っていたのだろうか。はっきりしたことはわからないが、縄文時代の遺跡からは、鹿角とか動物の骨を加工して作った釣針や刺突具(ヤスやモリの先端部)の出土例がある。つまり、縄文時代には釣漁や刺突漁はすでにあり、さらには原始的な網漁も含む多様な漁撈が行われていたと推測される。

上久津呂中屋遺跡や、同じく氷見市にある朝日貝塚などの貝塚では、ブリのほかにもマグロやタイ、スズキ、コノシロ、カワハギ、サバ、イワシなどさまざまな魚の骨が見つかっている。今も食卓にあがる魚ばかりだ。氷見の縄文人たちは丸木舟で海に漕ぎ出し、そうした魚を積極的に獲ってていたのだろう。特にマグロは全長2m近い個体の骨が出土している。冬場のブリは無理でも、夏場に回遊してくる大きなクロマグロは獲ることができたのだ。縄文人、恐るべし。

 

ブリ漁に話を戻そう。

縄文時代からぐっと時代が下った江戸時代の初め、氷見の沖合では台網と呼ばれる定置網を用いた漁がすでに操業されていた。元和4年(1618)には宇波地先の「沢二番」、元和7年(1621)には阿尾地先の「樽水二番」の秋網の網下ろしが許可されていたことが史料の上で明らかとなっている。「沢」とか「樽水」というのは網場の名称。また、当時の台網は複数の台網を沖に向かって連結して敷設し、岸に近いほうから「一番」「二番」と称していた。「二番」というのはそれぞれの網場で岸から二番目に近い台網をさす。つまりこの元和年間以前には「沢」、「樽水」の両網場ともに一番の台網がすでに敷設されていたということになる。さらに、「秋網」と書かれているように、他の季節の網が存在したことがうかがわれる。事実、慶長19年(1614)には宇波の「沢二番」ではマグロを獲る「夏網」が敷設されていた記録が残されており、これが富山湾における定置網敷設の最古の史料とされる。この史料をもって富山湾の定置網漁の歴史は「江戸時代初めから400年間以上」となるわけである。

 

戦国時代の有名なあの人も氷見のブリを食べていた?

さて、その少し前の戦国時代の末期、氷見地域とブリに関する興味深い記録がある。

時に文禄4年(1595)11月、その当時京都にいた加賀藩祖、前田利家が、金沢の老臣らを介して、氷見の宇波村に対しブリを送るよう命じた書状がそれである。11月7日付けのこの書状には、ブリ17本を「よく塩をさせ、背刀を入れ、いかにもいかにも念を入れ」至急京都へ送るよう記されている。

旧暦の11月7日は現在の12月半ば。まさに寒ブリ漁の最盛期だが、京都へ送られたのは当然生のブリではない。塩漬けのブリ、いわゆる塩鰤であり、この書状が現在知られている塩鰤に関する最古の史料となる。

原文は氷見市立博物館で展示されている書状のレプリカを見ていただくとして、この文書によって判明する重要な点がいくつかある。

 

第一に、冬場のこの時期、氷見に依頼すれば確実にブリが手に入ることが、金沢の前田家中で認識されていたという点。少なくとも加賀藩領内では、この季節の氷見でまとまった量のブリが水揚げされることがすでに知られていたのだろう。

第二に、ブリを獲った漁法は定置網(台網)漁と考えられる点。ブリを獲る手段としては刺網漁や延縄漁もあるが、冬場の荒れた日本海でまとまった量のブリを確実に手に入れる漁法としては、その後江戸時代を通して操業が続いた定置網漁だった可能性が高い。第一で示したとおり加賀藩領内で一定の評価を得ていたとすれば、その時点ですでに定置網漁が継続的に操業されていたと考えることも出来よう。

第三に、そうやって調達されたブリを誰が食べたか、という点である。結論からいえば、これはかの豊臣秀吉だったと推測される。

ブリを京都へ送るにあたってかなり気を張っていることは文書からも読み取れるが、念入りに塩漬けされた上で京都へ送られた氷見のブリは、利家によっておそらく進物や饗応のために用いたものと考えられる。

さらに、昭和10年代頃には腹開きで作られていた氷見の塩鰤だが、わざわざ「背刀を入れ」と背開きにするよう注文していることからも、相手は武家(※)。また文禄4年といえば、秀吉の後継者で甥の関白豊臣秀次が切腹した年で、秀吉はいまだ建築途中だった京都の伏見城に2年前に生まれた子の秀頼とともに住まいしていた。前田利家が気を張って進物に供するとすれば、その相手は自らの主君である豊臣秀吉をおいてほかにはない。

もちろん、1通の書状から想像をたくましくした証拠のない空想(妄想)の話ではあるのだが、江戸時代には「越中ぶり」として広く知られ、現在「ひみ寒ぶり」として名高い氷見の寒ブリのブランド性というものが、こうした歴史の中で培われていったのではないかと思うのだ。

 

ブリの呼び方が木造船をつくるときに必要なあの道具に似ている

最後にブリの若魚の名前について紹介しておこう。

出世魚であるブリは、その成長段階に応じて、富山県西部の氷見では「ツバイソ、コズクラ、フクラギ、ガンド、ブリ」、県東部の魚津では「ツバイソ、フクラギ、ハマチ、ブリ」と名前を呼び分ける。ちなみに富山市出身の筆者は、氷見に来るまで「ツバイソ、フクラギ、ブリ」という名前しか知らなかった。より名称が細分化されている氷見は、それだけブリが生活に密接に関わる存在だったと言うことが出来ると思う。

さて、船大工の大事な技術にひとつに、板と板の継ぎ目にノコギリを入れて摺り合わせ、接合面を密着させるアイバスリという技術がある。アイバスリに用いられるのがアイバノコとかスリアワセノコと呼ばれる専用のノコギリだ。粗目から中目、仕上げ用の細目と、刃の細かさで3種類に分けられる。それぞれ名前があり、粗目がオオノコ、中目がチュウバ、細目がコブクラという。こうしたアイバノコとは別に板を切断するためのノコギリがあり、横挽き用をガンド、縦挽き用をガガリという。

横挽きノコの名称であるガンドは、ブリの若魚を指す名称と同じだ。そう思って見ると、アイバノコの細目の名称はコブクラで、ブリの幼魚コズクラの名によく似ている。今は亡き老船大工さんからアイバノコの話をお聞きした際、「コブクラってコズクラみたいですねえ。ガンドもいるし」と言ったら、「そんな生臭いもんじゃないわい」とたしなめられたのは良い思い出だ。なお、コブクラは江戸時代の船の百科事典『和漢船用集』でも紹介される由緒正しいノコギリの名前である。ガンドとガンドは関係あるかもしれないが、コズクラとコブクラは・・・・・・多分、関係ないのだろう。

魚津浦の例ではあるが、元文元年(1736)『魚津町産物書上帳』には「鰤」「はまち」「ふくらぎ」、天明5年(1785)『魚津浦方猟業役銀高等帳面』には「鰤」「ふくらぎ」の名前が出てくる。モノの名前の起源というのはわからないものが多いが、少なくとも江戸時代の富山湾では、すでにブリはブリ、フクラギはフクラギだったのである。

では、上久津呂や大境に住んだ縄文人たちは、ブリの若魚のことを何と呼んでいたのだろう。やっぱり縄文時代にもフクラギといっていたのだろうかねえ。

 

※ 関東風の蒲焼でウナギを背開きにするのは、武士が切腹を連想する腹開きを嫌ったから、というのは諸説あるうちの一つらしいし、第一このブリの一件は関西の話ではあるのだが・・・・・・。もしかすると、このブリの話がウナギの背開きと切腹の関連性を裏付けたりする話だったりするかもしれない。Wikipedia先生によれば、切腹を武士の栄誉と捉えはじめたのは秀吉の頃らしいというのもポイントか。
現在の定置網漁の様子。漁師が並んで網起こしをする左の船が網取り船
現在の定置網漁の様子。漁師が並んで網起こしをする左の船が網取り船