絵葉書「鰯漁期の氷見海岸」(昭和初め頃)

『広辞苑』にある「氷見」と「氷見鰯」の間は。春は氷見鰯 ~ひみいわし~を味わおう。


「ひみ【氷見】富山県北西部の市。有磯海(ありそうみ)に臨む漁港で、氷見鰯(いわし)の名が高い。(後略)」

「ひみいわし【氷見鰯】富山県氷見から産出する鰯。乾して食べる。」

岩波書店『広辞苑』(第四版)より

 

 

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氷見の春といえばイワシの季節である。

今でこそ氷見の寒ブリは全国的に有名だが、現在でも『広辞苑』に「氷見鰯」という項目があるように、江戸時代にはすでに「氷見鰯」が全国ブランドであり、遠方にまで氷見の名が知れ渡っていたという。それも『広辞苑』にあるように、丸干しにした干鰯(ひいわし)として食べられていたようだ。

 

江戸時代も終わりに近い安政5年(1858)、領国の海岸見分のため日本海沿岸を訪れた幕府の外国奉行らの一行が氷見町に宿泊した。その一行のうち、函館奉行の新藤銀蔵は、干鰯を賞味してこう述べている。

 

「干鰯のことを、江戸では「志免いわし」と聞いており、折に触れて探していたが手に入らなかった。ところがこの地へ来て氷見鰯の名前を初めて聞き、先ほど見本を食べたらものすごく美味かった。さすが名産品!(意訳)」

 

氷見鰯のことを「志免(しめ?)いわし」と、いささか訛ってはいるが、その名前は幕末の江戸の町にまで伝わっていたのである。結局この函館奉行の新藤銀蔵氏、江戸への土産として上干しにした干鰯500匹を買い求めて帰ったという(『応響雑記』)。

 

さらに、それをさかのぼること150年近く前。松尾芭蕉の高弟、蕉門十哲のひとりである各務支考は、元禄14年(1701)、北陸路を訪れ、『東西夜話』をまとめている。氷見で詠み、同書に収録されている句の中にも「氷見鰯」が登場する。

 

此浦は、氷見鰯とて世に名をつたへて、おほやけのもてはやし物にも、いと珍しと聞へたれは、浦の苫屋の哥のこゝろを、

此浦に花も紅葉もいわしかな

各務支考『東西夜話』より

(『氷見市史3 資料編1』(1998年)参照)

 

どうやら氷見鰯、氷見という土地を知らなくてもイワシの産地としては知られているという、現在の氷見ブリの如き知名度を誇っていたらしい。先にも述べたとおり、丸干しにして長期の保存に耐えられるようにした干鰯として各地に出荷されていたと考えられるが、その流通経路については実のところよくわかっていない。ともあれ、江戸時代中頃にはすでに名が知れ渡っているのだからたいしたものだ。

 

ところで、ひとくちにイワシといっても氷見で漁獲されるイワシは3種類に分けられる。側面に7個ほどの黒い点があるマイワシ、潤んだ眼が特徴のウルメイワシ、下アゴが上アゴより短いことからその名がついたカタクチイワシである。

maiwashi
マイワシ
urumeiwashi
ウルメイワシ
katakuti
カタクチイワシ

 

 

 

 

 

 

長崎県水産部ホームページより)

 

 

このうちおもに干鰯に加工されたのがマイワシである。氷見では、定置網(台網)漁と地曳網漁でイワシが水揚げされており、定置網漁では冬から春にかけて、地曳網漁では春秋2度が漁期だった。

干鰯は、例年11月から2月頃までの冬場に、屋外で簀干しにして作られた。マイワシの中でも脂のない「中羽」が干鰯には適しており、イワシは脂の乗り具合をみて、塩水に一晩漬け込んだ後、カヤ簀(ず)に並べて天日干しにした。カヤ簀には垂木が二本渡されており、前後の二人がそれを持って持ち運びをしたという。

実際に干鰯を干しているのが下の写真だ。絵葉書の題材とされたもので、積雪の上庄川河口付近、雪の上に敷かれたカヤ簀にたくさんのイワシが並ぶ。中央奥には平底の木造船カンコが陸揚げされており、カンコの前には、女性2人が前後に突き出した垂木を持って、やはりたくさんのイワシを並べたカヤ簀を運んでいる姿が写っている(あきらかにヤラセの写真ではあるが……)。

こうした簀干しは、昭和10年代以降は目刺しにかわり、昭和40年代には乾燥機が導入され、さらに甘塩のあまり塩辛くないものになって現在に至る。

なお、冒頭で引用した『広辞苑』第四版(1991)と、第五版(1998)、第六版(2008)とでは若干記述が違い、第五版以降「乾して食べる」が丸々カットされている。現代の食生活の中での干物の扱いの変化が表れているような気もする。

絵葉書「鰯漁期の氷見海岸」(昭和初め頃)
絵葉書「鰯漁期の氷見海岸」(昭和初め頃)

 

干鰯と並んでメジャーなイワシの加工品に、ミリン干しとコンカ漬けがある。

ミリン干しは、干鰯と違ってそれほど古い歴史はない。氷見に初めてミリン干しが伝えられたのが大正8年(1919)頃で、大正後期から昭和10年代半ばまで続いたマイワシの豊漁がそれを支えたという。ミリン干しという名称は戦後のもので、当初は「末広鰮」、昭和初年頃には「桜干し」と名付けられて盛んに製造された。下の写真は、まさに「桜干し」の最盛期に氷見で撮影されたもので、干し場に所狭しと「桜干し」を並べたカヤ簀が敷き詰められて天日干しされている。ミリン干しに使うイワシには、「中羽」を使う干鰯とは違い、脂が少ない「小羽」が適していたとか。

 

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絵葉書「桜干時季の氷見海辺」(昭和10年代前半頃)

 

一方、コンカ漬けは、漢字で書けば「粉糠漬け」、イワシの糠漬けである。こちらは脂ののった「大羽」のマイワシが用いられた。氷見のコンカ漬けは、越前や若狭でみられるサバの糠漬け「ヘシコ」や、加賀のフグの卵巣の糠漬けなど、日本海沿岸に点々と分布する魚の糠漬けのひとつである。

ところで滋賀県の郷土食である鮒寿司は、クセがある強いにおいで有名だが、同じ乳酸発酵である氷見のコンカ漬けは、その香りも味も実は鮒寿司に良く似ている。コンカ漬けに馴染んだ氷見の人なら鮒寿司も美味しく食べられるのではないだろうか。

そのほか、煮干しや肥料に用いる干加(ほしか)と〆粕(しめかす)など、イワシにはさまざまな加工品がある。干加、〆粕といった魚肥については語りつくせないので、また別の機会に書くことにしよう。

 

さて、氷見漁港緑地公園の遊歩道には、石川県生まれで、昭和22年から31年まで氷見に在住した歌人、岡部文夫の歌碑がある。

 

青青と氷見の潤鰯(うるめ)の目にたまる泪の如きもの何ならむ

岡部文夫

 

ウルメイワシは氷見では「メンチョ」と呼び、量は少ないながら干鰯にすると銀色に仕上がる。また大型のウルメイワシは「ドンボイワシ」といい、刺身や塩焼きが絶品である。

近年、イワシの漁獲量は減り、特に今年はかなりの不漁だとも聞く。それでもイワシはやはり私たちには身近な存在だ。

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あらためて『広辞苑』を見ると、「氷見」と「氷見鰯」の間に挟まって「美味」の項がある。氷見の美味たる氷見鰯、その歴史を噛み締めながら味わってみるのはいかが。

 

岡部文夫の歌碑(氷見漁港緑地公園)
岡部文夫の歌碑(氷見漁港緑地公園)

 

【参考文献】

『氷見のさかな』(氷見市教育委員会、1997年)

『氷見市史3 資料編1』(氷見市、1998年)

『食の風景 ―つくる・たべる・たくわえる―』(氷見市立博物館、2009年)